絵画のコレクターで財力と審美眼を兼備する人は珍しいが、ビュールレはその稀有な例外だろう

 東京・六本木の国立新美術館に、「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」が来ています。絵の説明に入る前に、このたぐいまれな審美眼とお金儲けの才能を兼備した人物のことを書いておきましょう。エミール・ゲオルク・ビュールレ(1890-1956年)はドイツ人で、スイスに移住した大実業家です。学生時代に美術史を学び、その後、武器を軍に売るビジネスで成功して、そこで得た潤沢な資金をつぎ込んで、印象派とポスト印象派を中心にしたプライベート・コレクションを作り上げます。死去ののち、遺族がチューリヒの遺邸を美術館としてオープン。モネ、ルノワールゴッホセザンヌなど、フランス印象派とポスト印象派の巨匠たちの名画を所蔵する、美術史的にも重要な美術館として高い評価を得てきました。

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そこで僕が思い出すのは、ポーラ美術館の鈴木常司(すずき つねし1930-2000)のことです。化粧品会社の2代目ですが、箱根で彼が蒐集した作品の数々を見ると、コレクションとはコレクターによるひとつの創造行為であることを深く実感せずにおれません。恐らく彼は日々の苛烈なビジネス活動や企業経営の困難の中で、心の中に絵に対する激しい渇望が生れ、絵による癒しや対話、静寂の回復などを切実に願っていたと思うのです。このビュールレも同様に絵に対する内面的必然が感じられ、それゆえ選択眼も確かで、作品の買い方にも、画商に言われるがままの旦那買い、などとは違って一本筋が通っています。

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《日没を背に種まく人》フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩 カンバス ©Foundation E.G. Bührle Collection, Zurich (Switzerland)
Photo: SIK-ISEA, Zurich (J.-P. Kuhn)

 僕が強く惹かれてやまない上のファン・ゴッホの《日没を背に種まく人》など、そのコレクションの代表選手ではないかと思われます。去年オランダのゴッホ美術館からもほぼ同じ絵画が来たので、そちらの方をすでにご覧になった方も多いかもしれない。以下、その時の解説と重複するのをお許しいただくと、カンバスの真ん中を大胆に断ち切るのは、当時の西洋画アカデミズムでは到底考えられない、大胆不遜な構図の樹木の幹。ゴッホかつて憧れて模写までした広重の《亀戸梅屋敷》の臥竜梅の再引用です。ミレーの種まく人を下敷きに、浮世絵との重ね技により、グラフィックで象徴的で、どこか宗教的な法悦感さえ漂わせる画法に成功しています。美術史的にも貴重な作品といえます。

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またこの作品を思想的に考えると、僕の理解では、ファン・ゴッホは聖書のヨハネ福音書を重ね合わせているように思います。つまり、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言う一節です。ゴッホは自分が死ぬことで、エスのように永遠の命と普遍を獲得するのだと言う決意を、ここで表明しているのではないか。彼はプロテスタントなのでゴーギャンのようにあからさまな聖像は描けないものの、もしそう考えるなら、これは隠された聖人画(=イコン)であり、種まく人はイエスであり、同時にゴッホである、と言う解釈が成り立つ訳です。実際に、ゴッホはこの2年後、自らの脇腹を短銃で撃って、自死に至ります。ゴッホは自ら殉

教し永遠の命を得ようと狂想していた、その覚悟を早くもこの絵で表明していると見るのは異端に過ぎる読みでしょうか。僕には種まく人の頭にかかる黄色い太陽が、聖人を指し示すニンブス(=光輪)に見えてしょうがないのです(つづく)。