左下の《肖像》を見て感じるのは、嫌悪?興味?森村泰昌の作品は、身体を賭したゴッホ批評だ。

京都国立近代美術館での「ゴッホ展」は終わってしまいました。見どころの多い企画展で、僕ゴッホの画法の変遷や宗教観を考察する機会を得て、充実した余韻がまだ残っています。しかしながら、なおもニューズレターに書き残した気がかりが一つある。それは、4階に関連展示されていた森村泰昌(もりむらやすまさ)の作品の事です。

                          

cid:image001.jpg@01D3BF5E.821F5980ゴッホ 耳を切った自画像 に対する画像結果

森村泰昌《肖像/ゴッホ》カラー写真1985年  右;ゴッホ包帯をしてパイプをくわえた自画像18891

 

美術ファンならこの人の名は聞いたことがあるかもしれない。作品をご覧になった方も多いだろう。例えば上の左。今展には出品されていませんでしたが、1985年、森村の作家としての評価を決定づけた、実質デビュー作にして記念碑的な作品です。パロディというにはシリアスで、「なりすまし」と表現するのも舌足らず。僕も最初、ギョロギョロとした眼(写真)に見つめられ、嫌悪を感じながらも気になって目が離せないという、混乱した反応を示したのは事実です。幸運にも(あるいは運悪く)この作品を目にした人は誰しも、アタマをかく乱され、痺れさせられ、いつの間にか美の狩人である森村が仕掛けた毒の罠に自分が落ちているのに気づくでしょう。

そこから逃れ得るのは、よほど保守的で権威的な美術鑑賞の精神の持ち主だけかな。でも、うかうかと嵌まってしまった穴の底に立ったならば、人は広がる青空を見上げながら、「ああ、自分はゴッホになったぞ」、と森村の喜びを自分もまた追体験することになるのです。最近になって僕は、ゴッホの針金がいっぱい突き出したような黒い帽子が、イエスの荊冠であるとの森村の解釈を知り、「ゴッホ自死は殉教」とする僕の考えと合致したので大いに驚きました。

                         ●

今さらながらではありますが、美術鑑賞とは、見る側の創造行為である――。森村作品を見ることは、権威主義の埃りを払い自分の美術を見る眼(脳)を新しくすることに他なりません。その体験は、自由とイノセントな気分にあふれ、何とちょっとクセになるかもしれない代物なのです。

cid:image003.jpg@01D3C062.2675AAD0cid:image006.jpg@01D3C062.2675AAD0

右;《自画像の美術史(ゴッホの部屋を訪れる)》 カラー写真 作家蔵

 

さて、それでは、今展に出品された森村作品をもう一度回顧して見ましょう。左はゴッホの部屋の再現。撮影セットです。右はそこに自身が入り込みゴッホに扮して撮影したセルフポートレートちなみに壁にかかった絵も自らがゴッホに扮した作品です。何という純なゴッホへの直截なアプローチ!身ぐるみゴッホにダイブした、とも言えるか。彼は「絵の中に自分が入ってみたかった」そうですが、無垢な暴力性に満ちた、この作家の自由な創造を僕は讃嘆せずにおれません。

                    

さて、森村泰昌は他にも、三島由紀夫やマドンナ、マネの《オランピア》などの名画の主人公に扮して数々の話題にとんだある意味、挑発的な作品を発表し続けてきました。今や日本を代表する作家で、2008年には芸術選奨文部科学大臣賞、2011年は毎日芸術賞紫綬褒章なども受賞。この前、僕は訳あって中学・高校の文部省検定の、美術の全教科書を調べた時のこと、大阪の出版社の高3の美術教科書に、森村作品が掲載されているのを発見しました。見るべきところを見ている人もいると言うことです(ゴッホの項全6回、完)。