ゴッホ版の《種まく人》はいかにして誕生したのか。興味尽きない創作のプロセスと背景を追う

京都の平安神宮に近い国立近代美術館で開催されている「ゴッホ展――巡りゆく日本の夢」。

僕が一番気に入ったのは、この《種まく人》。じぶんでは珍しく複製画まで買ってしまいました。

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《種まく人》1888年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵

© Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

 

この絵は誰もが分かるように、ミレーの《種まく人》を下敷きにしています。下の左、ボストン美

術館の所蔵する絵です。ちなみに同じ題の同様の絵が日本の山梨県立美術館にもあります。

《晩鐘》、《落穂ひろい》などでもよく知られ日本人の好きなミレーですが、多くの理解は土と共

に生きる敬虔な農村の暮らしへの共感、くらいで留まっているようです。でもゴッホがこの絵に

感応したのは、そこに込められた宗教的な意味あいです。

                           

もしミレーの絵の発想のもとを、例えば聖書のヨハネによる福音書(12章24、25節)と推定

するなら、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの

実を結ぶ」(共同訳)と記されています。また、そこではこの世での自分の生命を憎む(=惜し

まない)人は、永遠の命に至る、とも語られているのです。

父がプロテスタントの宣教師、自身も若い頃、伝道を目指したゴッホの事ですから、農夫をイ

エスに見たて、播く種をイエスの言葉としてミレーの絵を受け取めることは、きわめて自然です。

ゴッホはさらに、それが地に落ち芽を出し、何十倍となって大地に栄え、永遠の生命を獲得す

ることを、自身でもまた夢想したのではないかと思います。以上が、ゴッホがこの絵を描いた

モチベーションです。しかしながら、一途な宗教的情熱のあまり、その後の痛ましい自傷、自

死事件を引き起こす不穏な動機も、既にこの絵の中に隠されているように僕には思われます。

死ぬことによって、救われて永遠を生きる、そんな狂気じみた願望が見えはしないでしょうか。

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ミレー《種まく人》1850ボストン美術館 歌川広重 名所江戸百景

《 亀戸梅屋敷》1857 

さてそれでは、描画の技法ですが、これはもうゴッホがぞっこんだった広重の《亀戸梅屋敷》から

 

借用しています。下の画像の真ん中は、広重を左右反転して上下をトリミングして見たものです。

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右のゴッホ版《種まく人》と比べるとどうですか、構図が重なり合いますね。それにしても、僕が

この絵に惹かれるのは、全体に何か宗教的な法悦感のようなものを宿していて、微熱を放射して

いるかのように感じるからです。背景の黄緑色は、空の青と太陽の黄色の合成色ですし、今まさ

に沈まんとする太陽は復活を約束された希望でしょう。農夫の頭にかかっていることからも、これ

を宗教画の聖人の頭部を飾る光輪(ニンブス)とゴッホはみなして描いたと僕は考えます。

浮世絵の力を借りて、ゴッホ印象派からさらに前進して、このように近代西洋画の画法に無

いグラフィックで後年の象徴主義にも近づいた絵の文法を発明しました。ゴッホは西洋で浮世

絵の精神を最も先鋭に受け止めた画家と言えます。と、ここまで書いてきて、種まく人の「種」が

何の種なのか、すごく気になりだしました。その考察を次回に(つづく)。

 

ゴッホ展(京都会場)は、3月4日まで。岡崎の国立近代美術館にて開催中。