ジャポニスムの巨匠、ゴッホ。単なる異国趣味を越え、深い日本の精神を理解した画家だ

江戸の人々が好んだものは、花見に旅行、そして芝居、風呂。まあ、なんとも羨ましいリタイア後の理想のような生活を、皆がしていたんですね。6人に一人がお伊勢参りに出かけたという記録もあります。大した現金収入や貯金があったとは思わないのに・・。200年以上戦争がなく、物価も安定して将来のことが心配ないとなれば、かくも人間は豊かに文化的に暮らせるものなのか!

なかでもお殿様から長屋の庶民に至るまで、江戸人の花好みはよく知られていて、「江戸の花見は、梅に始まり菊に終わる」と言われています。現代では花見と言うと、ほぼ桜のことになってしまいますが、この時代は花の美に貪欲でした。イギリスのフォーチュンというプラント・ハンターが幕末の日本にやってきて、「日本人は庶民まで花を愛でる、これは文化度が高い国民の証拠だ」と手放しの称賛を日記に残しています。花の中でも、江戸の終わりにブームとなったのは「菖蒲」で、各地に菖蒲園が生まれます。左下の広重なども、そうした時代の嗜好に応えたものでした(今展には出品されていませんのでご注意)。

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《名所江戸百景 堀切の花菖蒲》1857年 広重 《アイリスの咲くアルル風景》1888年ファン・ゴッ

ホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵 © Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation

 

さてゴッホの話です。ゴッホが弟のテオを頼ってパリに出てきたのが1886年ゴッホはこの花の都で大量の浮世絵に出会ったことで、大きな衝撃を受けます。画商ビングの店の屋根裏では、1万点に上る浮世絵があったと、ゴッホは手紙にしたためています。たちまち熱病のように浮世絵に取り

つかれて、ゴッホはコレクターとなり、集めた枚数は何と660枚。また、翌1887年には有名な広重の《亀戸梅屋敷》などの模写を3点、描き上げます。

プロテスタントの牧師の息子で、オランダ時代は暗い絵ばかり描いていたゴッホにとって、色彩豊かで、アカデミズムの教条的な画法から自由な浮世絵は、まさに憧れの桃源境に出会った思いだったことでしょう。こんなに自由で美しい世界があっていいのか、とそれまでの自分の宗教倫理や謹直すぎる絵画観を吹き飛ばす、大事件を経験した訳です。

事実ゴッホはそこから大きく、まるで別人になったかのように画風を変えていきます。上の、1888年のアルルに移った年に描いた《アイリスの咲くアルル風景》もその一例。ジャーマン・アイリスの花畑のかなたにパリで見た広重の浮世絵の花菖蒲を連想し、憧れの日本への思いを募らせた作品です。

ゴッホはガラス工芸のエミール・ガレと並んで、ジャポニスムの巨匠です。初期の模写の段階から進化して、たちまち浮世絵師の一木一草を崇拝する日本的な自然観を受け容れ、自分の画法を変化させていくだけの思想的な幅広さと柔軟な思考力を持っていた教養人だと思います。彼は手紙でこんなふうに言っています。大意を記すと

「日本の芸術を研究すると、賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。彼が研究するの

はたった一茎の草だ。しかし、この一茎の草(の描画法)が、やがては彼にありとあらゆる植物を、つ

いで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物を素描させることとなる。

あたかも己れ自身が花であるかのごとく、自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそ、もうほとんど新しい宗教ではあるまいか」

 

一行目の「人物」とは広重や北斎を指しています。彼の宗教は基本はプロテスタントでありながら、ここにも記されているように、同時に一木一草に神性を見出す日本の汎神論的な自然観やまた太陽信仰さえも思想の中に混然一体として取り込んでいます。彼に狂人のレッテルを張り、そういう絵だと見るのは間違っています。そう解釈すると、そこで思考も鑑賞も止まってしまう。ゴッホほどわが身を顧みず全身全霊を賭して、太陽、月、大地など宇宙の万象と震えるような交感ができた画家は他にいないでしょう。

彼の絵は、思索家としてのゴッホがたどり着いた独自の境地の、信仰告白であり遺言ともいえるのです。

 

ゴッホ展(京都会場)は、3月4日まで。岡崎の国立近代美術館にて開催中。

 

岩佐倫太郎 美術評論家 美術ソムリエ