(2014のFBのNOTEを再録)利休賜死事件の真相その③

利休賜死事件の真相その③ 

利休は秀吉を挑発し、ついに思枠通り死罪を勝ち取ったという推理は、突飛に過ぎるか?

 

【映画、<利休にたずねよ)>と 利休賜死事件の真相 その③】        

 

本論に入る前に、少しばかりキリストの磔刑について。ご存知のように、キリストは弟子ユダの裏切りにあい、逮捕され裁判を受ける。罪状は、「キリストが自らをユダヤ王と僭称し、国民を惑わせてローマへの反逆を企てたこと」でした。

 

利休といい、でっち上げの罪状とは似たものになりますねえ。さすがにローマ人の総督ピラトは、キリストを見て申し開きを聞こうとしますが、それに対してキリストは何の弁明もせず、自身が磔(はりつけ)になる十字架を荷なってゴルゴタの丘に登る。新約聖書の最大の山場です。多くの画家が、「この人を見よ」、「キリストの磔刑」など著名な名画を生みだしています。中でもプラド美術館(マドリッド)のベラスケスの「キリストの磔刑」は白眉といえるでしょう。潔いグラフィックがモダンで、とても17世紀前半の絵画とは思えません。歴史に「もし」はありませんが、もしキリストが延命を図って成功していたら、「贖罪 の子羊」の教義は成り立たず、キリスト教の世界的な発展はなかった筈です。

                     

さて、利休はわが身を犠牲として捧げたキリストのヒロイックな殉教伝説を、知ってい たのか。知ってたでしょうね。というのはこのときすでにイエズス会によってキリスト 教が日本に伝わり、堺はその外国文化の受け入れ窓口として先進的な都市でしたから。 利休七哲とされるお弟子たちの多くも、高山右近、細川三斎ら洗礼名さえ持つキリシタ ン大名。利休との日常会話の中で聖書の話をしなかったわけはなかったでしょう。                   

 

利休は秀吉に見込まれ天下一の茶道となり、天皇の献茶式の秀吉を後見し、「利休」の 居士号を受け、現世的にはこれ以上何も望むもののないほどの栄誉を手にします。齢も 70歳となれば、あとは茶道の隆盛を計りわが名を永遠ならしめるのが人生の総仕上げ。

 

ここからは想像をたくましくしての僕の説ですが、ならば最後は栄誉の死を秀吉から賜る のが、自己演出の最高の花道、と考えたとしても不思議はないでしょう。「賜死」によっ て、茶道と権力が同等と見られる。巧みなポジショニングです。それに自身、多くの武将 を茶席のあと死地に送り出した自責の念もあり、いつまでも死の覚悟もない茶席を安全な 所で繰り返していることに忸怩たる思いもあったでしょう。ただし、この大秘策はネタバレした途端、何のために死んだか判らないことになるので、墓の中でさえ口をつぐんで、誰にも語らず永遠の沈黙を守るべし・・。

 

賜死はこのように利休が自ら計画したと考えると、実はつじつまが合うことも多いのです。 100回に上る茶会もすでに賜死を心づもりした上での、まさに一期一会、弟子たちとの別 れの儀式だった筈。 秀吉の聚楽第の目と鼻の先の利休宅へ連日連夜、大名、商人、僧侶などが通えば、いやで も秀吉の疑心暗鬼を発動する。もし秀吉が訪問の折に少しでも慇懃無礼な態度を示したと したら、たちまちにこらえ性の無い独裁者の老人は、謀反の謀議を怖れ、死罪を言ってくる だろう、そう読んで挑発したかもしれない。                   

 

毒杯を仰いだソクラテスのごとく、堺への追放から自刃の命令まで、この間なんの抗弁も 助命嘆願もせず(当然ながら!)、従容として死に赴いた利休。最後の心境は、決して歯 噛みするような悔しさではなく、天下人を出しぬいて、歴史を動かしたのは俺だと、喜び にほくそえんでいた、という解釈は面白すぎますか。

 

彼が死の前日に書いた辞世の句。遺偈(ゆいげ)といいますが、「人生七十」で始まり、最後の2行は、「具足の一太刀、今この時ぞ天になげうつ」、と結んでいます。一太刀とは利休自身のこと。めそめそした恨みの句ではないですね。「よしッ!わが一命は天に捧げたぞ」と、茶道を大成し後世の発展をさらに頼みにする男の、自信と狂気じみた野望がほとばしっています(この項、完)。