【牡丹と孔雀~ルネサンスはいかにして日本に伝わったか】

関西ではちょうど牡丹の見ごろなので、牡丹の絵を取り上げてみました。この絵は、《孔雀開屏図》。1758年の作。牡丹やハクモクレンを背景に、孔雀が羽を全開するというおめでたい絵柄です。中華民国台北にある国立故宮博物院が所蔵しています。

   

《孔雀開屏図》 郎世寧 故宮博物院 羽の色の生々しいリアリティ!空間は立体的

ところで、この絵の作者がイタリア人だったと言うと、驚かれるでしょうか。画家は、ミラノ生まれのジュゼッペ・カスティリオーネ(1688-1766)です。絵が巧みで、長じてイエズス会の宣教師となり、絵の技術をもってアジアの布教に向かい、清王朝に仕えます。彼の絵画法は肖像画花鳥画にしても、それまでの中国になかったルネサンス式の写実性と科学精神を備えており、それゆえ清朝の雍正、乾隆ら歴代皇帝を魅了して大いに珍重されるところとなります。中国名を現地式に「郎世寧」と名乗り、造園や建築でも活躍し、故国に帰ることなく78歳で北京で没します。

《牡丹図》 郎世寧 故宮博物院 緻密な写実精神が横溢

僕の推定ですが、このジュゼッペ・カスティリオーネ(=郎世寧)こそ、最初に中国にルネサンス美術をもたらした人物。彼は渡航した翌年、「視学」と題する西洋絵画の「焦点透視法」を紹介する専門書も出しています。彼のもたらす西洋の知識をきっかけにして中国の宮廷画が西洋の遠近法や写実精神を受容し、伝統との混血が始まったと考えられます。

さて牡丹と孔雀の絵を日本で探すなら、写生画の始祖と言われる円山応挙(1733-1795)の作品がいくつも知られます。例えば下の《牡丹孔雀図》(萬野美術館旧蔵 重文)を郎世寧と見較べてみましょう。世界観は酷似と言ってもいいくらいで、明らかに応挙は郎世寧を下絵にしています。郎世寧の作品の写しでも見る機会があったのでしょうか。とすれば、日本の写実のもとは、興味深いことに中国を経由したイタリア絵画ではなかったか。そうなら、イタリアから中国、そして日本へと美術文化の大潮流を想定できますね。

《牡丹孔雀図》 円山応挙 1771 萬野美術館旧蔵(2004閉館) 重文 応挙44歳時の作品

それではその時いったい誰が、中国から日本に最新の写生術を運んだのか?それは沈南蘋(じん なんびん 1682-1760)という中国人の画家と特定できます。沈南蘋は清朝の宮廷でイタリア人の郎世寧と同僚でした。当然彼の実作も数多く目の当たりにし、遠近法の本も読み、郎世寧風の絵も描いたと思われます(福田美術館にもその作品があります)。

歴史の偶然が面白いのは、その沈南蘋が1731年、徳川将軍吉宗の招きで弟子を連れ長崎にやって来たことです。そこで2年間滞在し、日本人の弟子たちに西洋のルネサンスと混血した新しい中国画法を伝授します。

若いころ京都で「眼鏡絵」という覗きからくりの原画を描いていた応挙は、沈南蘋の影響を受け、旺盛な探求心で世界の新潮流を受け止め、日本のルネサンスとも言うべき写生画の世界を切り拓いたと理解できます。僕のようにオランダ経由以外の日本へのルネサンス画法の流入経路を考えた論考は、他にまだ知りませんが、皆さんは僕のこの仮説にご賛同いただけるでしょうか。

 

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ