「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 第②回 ■ミレー《春》

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 第②回
 
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)《春》
 
 
「この名画はなぜ名画なのか」シリーズの第2回も、前回の《落穂ひろい》に続いてミレーの、《春》を取り上げてみました。ミレー晩年の最高傑作と言われ、オルセー美術館の誇るコレクションです。

この絵をふつうに解釈すれば、ミレーが移住したパリ南郊のバルビゾン村に、万物胎動の春が巡り来たのを祝って描いた風景画、と言うことになるでしょう。よく見れば絵の右下には黄色いタンポポも咲き、道の辺の雑草まで花をつけています。盛大に白い花をつけた木はおそらくアーモンドで、フランスでは花期は2月です。なので全てつじつまはあっています。
ところがこの絵は、僕の感じではどこか変なんですよね。というのは、ほかのミレーの傑作では、《落穂ひろい》にしても《晩鐘》にしても、すべて人物が絵の主題となっています。働く農民の敬虔な肖像画なわけです。ところがこの絵に限っては人物は真ん中の遠くの樹下に、見つけるのに苦労するほど小さく描かれているだけ。
べつに人物がいてもいなくても、これは「風景画」だから構わない、と考えることもできます。ところがミレーの「風景画」は、コレクターに発注されて描いたパステル画以外に、油絵ではほとんどない。つまり人物が主題でない異例な油絵を、彼は死のおよそ2年前に描きあげていることになります。この《春》の意図は何なのか。春の景色にしては妙に荘重で、艶美な宗教感すら窺えます。
 
この絵を見て僕はずばり、旧約聖書にある「創世記」のうちの、「ノアの箱舟」を描いたものだと断じました。「ノアの箱舟」ではおごって増長した人間を罰するために、神は大洪水を起こす(西洋の神は、多罰と選別の神なんです)。唯一、その大厄災を逃れ得たのはノアとその家族です。神の命で巨大な箱舟を建造し、一家と動植物のつがいを積んで避難する。洪水が荒れ狂うこと150日、そろそろ水が引いて陸地が現れるかと鳩を放ちますが、鳩はすぐさま帰って来ます。つまりまだ水は引いていない。止まるところがないのです。しばらくたって再び鳩を放つと、今度はオリーブの枝をくわえて帰ってくる。ということは少し陸地ができてきた。そして、その次に鳩を放つと今度は帰ってこない。大地ができて木々も繁茂している証拠、もう箱舟から出ても大丈夫となる訳です。それが2月の27日と記述されています。春先です。神はノアの一家を祝福し、もう2度と洪水を起こさないことを契約し、その証しとして虹を空に架ける。

 

その神話的な聖書世界をミレーは再現しているのです。念入りなダブル・レインボウや鳩が舞っているのもご確認いただけるでしょう。ちなみにアーモンドは花も枝も聖書的には、神の意思を示す、とされます。
ミレーの《春》が旧約の「ノアの箱舟」だと論考した例を他に知りませんが、洪水の大カタストロフのあと世界が再生したように、ミレー自身も神の意思を得て、新たな生をもう一度生きようとする。ーー死を自覚した画家の願望を投影した絵がこの《春》ではないでしょうか。僕が思うに木の下の小さく描かれた人物は、おそらく自画像。ポーズは種を播いている(種は再生のシンボル)ように見えませんか。