古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑰土地問題から継体の思想が見えた

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑰土地問題から継体の思想が見えた■

 

継体は25代武烈の崩御のあと豪族たちに推戴され、再三固辞しつつも最後にやっと重い御輿を上げて王位を継承し、淀川沿いの樟葉に皇宮を構える。ご承知のように、大和には入らない。その理由は前にも書いたように僕の考えでは、「土地が無い」からだ。自前の土地も無いのに、大和に宮を築いたりしたら、危険極まりない、という感覚だろう。

 

さあ、この辺で僕の疑問が沸き上がる。すでに仁徳の時代にも、屯倉(みやけ=直轄領)があったではないか。雄略の時代には朝鮮(百済)に屯倉を経営した記録さえある。もし仮に、今の東京ドーム何個分かに匹敵するような土地を先代から皇室資産として受け継いでいたなら、皇宮は大和に置き、塀と環濠をめぐらせ、兵を常駐させ、武器庫や食糧庫は深奥に置き、監視塔なども付置してセキュリティを確保できただろう。

 

継体が即位して迎えた皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)は、雄略の孫にして武烈の姉。それだけ正当な血筋なのだから、持参金代わりの土地は無かったのかと思うが、日本書紀などにそうした記述は無い。皇室の土地は男系で継ぐものなのか。それとも雄略のあと天皇家は弱体化して、所有地も豪族たちに蚕食されていたのか。先代の武烈も継体も、指名したのは同じ大伴金村物部麁鹿火(もののべの あらかい)だ。絶大なキングメーカーたちが、王室の富を差配していたとしても不思議はない。

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継体は土地が無いばかりに大和に入れないことを、大いなる屈辱とした。そして宮廷をほしいままに操る豪族に対して深刻な疑念を抱き、彼らを徹底して押さえこんで、雄略の時代のように強力な天皇専制を取り戻そうと決意した。とまあ、この辺は僕の想像だ。それゆえ即位後の継体は土地に執着し、自領の拡大にいそしむ。樟葉の湿地帯では、鉄器による開墾で農地を拡大した筈だし、地元の豪族、茨田(まんだ)氏の娘を妃に迎えた記録は、仁徳いらいの「茨田の屯倉」の確保に腐心したことを物語っている。

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継体は筑紫の豪族、「磐井の乱」の終戦処理で、磐井の息子の助命と引き換えに土地を献上させる。それが「糟屋屯倉

また、これは次々回に書くと思うが、筑紫の豪族の「磐井の乱」(528年)においても、滅ぼした磐井の子の助命嘆願を聞き入れ、引き換えに土地を献上させ戦勝賠償とした。これは「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」として王室財産に繰り入れられる。屯倉は息子の安閑天皇以降、九州ほかで一挙に何十か所にも増大する。

屯倉という直轄領は、収穫がそのまま実入りである。税の直接徴収なので、豪族による中抜きなど無くて、はなはだ効率が良い。また私有化している部民は、工事など労役にも、戦時の兵隊にも徴用できる。権力の根源は徴税と徴兵なのである(懲罰とセットで運用される)。とすれば土地が大きければ大きいほど、食料生産が増大し、それを一手に所有する者は当然ながらより大きな軍を持つことが出来る、つまり強国になることが出来る。

 

継体は若い時に朝鮮にわたり、東アジアの国際情勢の中で中国の動向なども見聞きして、群雄割拠から中央集権の時代になることを肌身で感じていた。その国際感覚の中で継体は、「天下統一」を夢見た最初の天皇だった(つづく)。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎