古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑪攻めるもよし、守るもよし、天然の要塞=樟葉

継体天皇は大和の豪族の懇請を受けて即位したものの、直ちに大和に入ることをしなかった。長らく樟葉(くずは)の近辺にとどまり、結局大和入りが実現したのは、20年ものちの事であった。これは謎とされ、その理由に大和に「抵抗勢力」があったためとされることが多い。でも、これってヘンですよねえ。抵抗勢力といっても、物部、大伴の二大豪族に推挙された上での即位なんだから、他に誰かいるの、と言いたくなる。ある本によると、葛城氏が反対勢力だったという。葛城一族は雄略に滅ぼされたのではなかったか、と記憶するのだが、「いや、別の葛城一族が残っていて大和にいたんです」という風にも書かれている。一部の弱小豪族が反対したと言って、即位した天皇が大和に入城できない、なんてことがあるだろうか。「抵抗勢力説」には、僕は余り説得力を感じない。

 

継体は大和に入れなかったのではなく、むしろここは積極的な意思で大和に入らなかった、と見るべきだと思う。迂闊に一族を率いて大和に行ったならどうなるか。どこに皇宮を構えるにせよ、そもそも天皇家としての土地はあったのか、相続資産はあったのか、大いに怪しまれる。大和に財産も情報も人脈も無ければ、いずれいいように取り込まれて傀儡政権にされるのは目に見えている。大和へ一挙に歩を進めるのは自ら袋のネズミになるようなものでは無いか。5世紀の後半、天皇一族は雄略による兄や従弟の殺害など、血みどろの権力争いを繰り返してきた。しかしそれも焚き付けられて豪族の代理戦争をさせられた面もあるのでは無いのか。

 

大和豪族が本当に欲しいのは継体天皇ではなく、鉄を始め、製紙、養蚕、馬の繁殖などの先進技術だろう。本心は技術移転を狙って自らの利権や財産を増大させようと言う魂胆なのだ。それが達成されたら、廃位や暗殺もありうる。となると、越前や自分の支持勢力が分布するびわ湖周辺から、一挙の大和入りは兵站線が切れて危険だ。継体の即位は57歳とも言われるが、分別と世間知を十二分に備えた年齢の新天皇に、危険を察知したアラーム音が鳴り響くのである。

 

その点、樟葉なら3つの川の合流点で、びわ湖からもつながる水上交通の要衝である。淀川右岸への渡渉地点でもある。継体の一族は出自からしても、水運や操船にもたけていた筈だ。またここは陸上交通でも重要なジャンクションの位置を占めて、越前、浪速、大和の3方への隘路を扼する地点だ。川はそのまま2重、3重の環濠をめぐらせたようなものだし、石清水八幡宮のある男山は標高143メートル、今でもケーブルカーが架けられているくらいだから、監視砦としても樟葉宮の後方の護りとしてもまたとない絶好なポイント。地政学的に万全なのだ。一朝事あらば、攻められて守るにも攻めて進むにも優位性が高い。天皇と言う言葉からは絶対者を思いがちだが、実はこの時代、天皇の呼称はまだない。豪族との専制的な力関係は雄略のあと崩れて、きわめて不安定な競争の構図の中にあったと思われる。それゆえ、継体には大和へのこだわりは無かった。

f:id:iwasarintaro:20210726151822j:plain

樟葉は三川合流地点あたり

 

さて、樟葉は水運・陸運の要衝で軍事拠点として絶妙な立地だっただけではない。もう一つ、技術を持つ人間にとっては、石ころがダイヤに変わるような可能性を秘めた、未知の黄金郷ともいうべき土地であった(つづく)。

■航空写真は国土交通省国土画像情報のデータをもとに、文字を打ち込んで加工しました。