古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑲磐井の乱の裏の本質とは

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑲磐井の乱の裏の本質とは■

 

継体が大和入りした時に、間髪をおかずに豪族へ発したのは、筑紫の磐井(いわい)の討伐命令だった。籠絡してやろうと手ぐすね引いて待っていた筈の、大和の豪族たちの甘い夢は打ち破られた。豪族たちは競わされ、有無を言う余地も無く、遠い九州の戦争に駆りたてられる羽目になる。国の統一と権力の強化のためにも継体は、戦争を必要としたのだ。当時、天皇は軍隊を持っていたのか、豪族も保有を許されていたのか、実はよくわからない。僕が想像するならば、豪族も軍隊を保有していて戦争命令が出れば、自前の軍を率いて天皇軍と協調しつつ戦う。自軍を動員するリスクを負う代わりに、軍功を挙げたら応分の地位や領土の利権を得る、そんな取引的な関係ではなかったかと思う。

 

さて、「磐井の乱」(527~528年)だが、実際に「乱」と言われるような反乱行為を磐井が引き起こした形跡はない。古事記によれば、「筑紫君磐井、天皇の命に従はずして礼なきこと多し。故、物部荒甲(あらかひ)の大連、大伴金村の連二人を遣わして、石井(いわい)を殺したまひき」とある。「礼なきこと」、とは何か。おそらく大和政権の度重なる服属命令に従わず、税を納めることを拒絶したのだろう。一国に二王は要らない。膨張する内圧を放出するため、必然的に戦争となる。

f:id:iwasarintaro:20210726205723p:plain

福岡県八女市にある北九州で最大の前方後円墳。墳丘長135メートル



結果的に、磐井との戦いは、継体側の勝利で終わる。このことの日本史上の意義は極めて大きい。なぜなら磐井の乱の平定をもって大和政権の力は九州にも及び、ほぼ全国統一がなされ、中央集権体制の基盤が出来たからである。継体の積年のビジョンはここに実現した。また磐井の子からは助命と引き換えに屯倉も得ている。寛大過ぎる措置とも思えるが、「屯倉の拡大」という第1ドクトリンに照らせば合理性があり、次代の律令国家はこのあたりから準備された、と評することもできるだろう。

f:id:iwasarintaro:20210726205845j:plain

石人は石でできた埴輪。石馬の埴輪もある

しかしながら豪族の物部氏らの側から戦争の結果を見ると、兵員の損耗や遠征による領地の疲弊は甚大だったに違いなく、実はそれこそが継体の起こした戦争の裏のねらいではなかったか。一石二鳥の人の悪い作戦だ。その辺の意図が窺える日本書紀の記述がある。継体はこの戦いの始めは、近江の豪族、近江毛野臣(おうみのけぬおみ)に新羅の討伐命令を下し、6万(!)にも上る軍を出させたが、磐井の妨害で失敗した、と言うのである。うがち過ぎかもしれないが、これは大伴金村ら中央豪族を引っ張り出すため、身内の近江勢に手抜きの戦いをさせたと考えられないか。その後、「中央豪族たちが協議して、ついに物部麁鹿火を大将にして磐井氏征討に向かう」(日本書記)。恐らく継体の計画通りなのだろう。戦いに勝ったならば、関門以西は好きなように切り取って良い、との餌の約束手形も巧みにぶら下げられていた。

 

継体の発想は、のちの徳川家が参勤交代などで諸大名の財力を削ぎ、政権安定を図ったことと酷似している。有名な今城塚古墳から出たピンク石も、僕が思うに継体が戦勝記念として7トンもの重さの自分用の石棺をつくらせ、参勤交代よろしく九州から1千キロを運ばせ、地方豪族の忠誠度を試すとともに、中央豪族の弱体化を狙ったもの、と見ている(つづく、次回で終わる予定)。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎