古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑱天下統一のための地政学

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑱天下統一のための地政学

 

前回の土地の問題を考えることによって、継体の思想と志向がハッキリ見えた。それは何かというと、「天皇専制による統一国家の実現」、である。しかも、「豪族より絶対優位に立って」、という条件付だ。強かった武烈の時代への復古思想なのか、と思われるかもしれないが、実は違う。武烈と継体の5世紀末から6世紀にかけてのわずか数十年の時間差においても、東アジアの大陸や半島の国々の、「群雄割拠から天下統一に向かう」情勢は進捗し、政治的な内圧はいよいよ高まる。継体は若いころ朝鮮に渡って、それを肌身に感じてヒリヒリする国際感覚を身に付けている。そこが大和の豪族たちと温度差だ。大陸や半島の国家に伍して生き抜くには、国を一つにまとめて大きい国にすることが不可避だと鋭敏な危機意識で直感したはずなのだ。そのために鉄の技術力や造船の技を持ち、外国と通商関係を築き、国内では農地を開拓し生産性を上げ、食糧の増産、兵力の増強と、いわば近代的な統一国家に国を改変させることが必須の条件だ・・・。と、まあ継体の心の内をこのように想像してみたのだが、書いていてこれって明治維新と文明開化に何と酷似している事かと、我ながら驚かされる。

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「勝福寺古墳」は、継体の力が西に及んできたことを示すのか

 

それはさておき」、いずれは大和に、という目標を持ちながらも、継体は決して急がない。家康のような辛抱強さでもって樟葉周辺に20年もとどまり、熟柿が自然と落ちる環境を作っていく。今城塚古墳を新しい開拓拠点にして、大阪湾からさらに、勢力圏を西漸させていく。その証拠が、兵庫県猪名川右岸の川西にある「勝福寺古墳」だ。全長40メートルの前方後円墳。石室を横穴式にするのは、継体の今城塚古墳と同じで当時の最先端のスタイル。時代的にもほぼ同時期の6世紀の始めとされる。出土品の円筒埴輪に、尾張特有のロクロを使った装飾が施され、関西では周りにないことから、被葬者は尾張とも関係の深い人物と考えられる。つまり尾張をも勢力圏とした継体の力が、淀川河口を越えて大阪湾の西にまで及んでいたと考えていいだろう。この辺は大阪大学考古学研究室のHPを参考にさせてもらっている。

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継体の勢力は西に延びて、西の勢力を遮断しつつ、遠巻きに大和を包囲する

こうなると大和在住の豪族や、大和川流域に勢力を張る豪族にとっては、要衝の樟葉周辺、出城的な今城塚、さらに西の猪名川と、ぐるっと大きく包囲された状態になる。もし継体に反対する豪族が大和や葛城山西側にいたとしよう。彼らは吉備や筑紫の勢力と軍事的に手を結ぼうにも、山陽道をブロックされている。恐らく海路も、舟運が得意な継体の指揮下に同じ豪族が入って、明石海峡以東を扼していたのではないか。これでは謀反のような行動は起こしようもなく、分断され、孤立化され、無力化させられる。これが継体の狙いだった。遠大な迂回作戦である。そうしておいて即位20年目にして、満を持してようやく大和に入城する。その時、籠絡せんと手ぐすね引いて待ち構えていた豪族たちに、継体は冷水を浴びせかけ、驚愕の命令を下す。筑紫の磐井を討伐せよと(つづく)。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎