古墳を巡り、継体天皇の謎を考える   ⑫沼地を黄金の稲穂が実る耕地に

継体天皇が都にえらんだ樟葉は、水・陸交通の要衝で、岬のように張り出す岩清水八幡宮の小山と、幾重もの河川が天然の要害になっている。それ故に地政学的に攻守を兼ね備えた軍事上も絶妙のポイントであることは、すでに多くの読者諸賢の同意を頂けただろう。ただ継体の樟葉をこのような視点から考察した例は、僕の知る限り今までにない。

それに加えて樟葉という土地柄は、稲作地としての可能性に富んでいて、継体はその事にいち早く気づいていたのではと僕は睨んでいる。というのも、樟葉一帯は三川が合流し、東の巨椋池、西の河内湖に挟まれた低湿地である。淀川を渡れば対岸にも湿地が広がっている。一見、打ち捨てられたような荒れ地を、自分たちの鉄の技術が生み出す農具で開墾し稲作地に転換させるなら、自前の領地を得て政権基盤をより堅いものに出来るではないか、継体はそう踏んだのではないか——大和の豪族には思いもよらない発想だった。

 

こんな僕の想像のもとは、なぜ徳川家康が関東にこだわったかというエピソードにある。まだ関ヶ原の戦いが始まる10年前の1590年のこと、家康は秀吉に転封されて江戸の地に赴く。そこで家臣たちと目にしたものは、湿地帯が延々と続く荒涼とした風景。家臣たちはこの冷遇に激高したが、その中で家康だけがひとり、大いなる希望を見出していた。なぜなら家康は荒れた関東の湿地帯の下に、広大な未知の黄金郷があるのを直観したからだ。水を制すれば、この地は無限の宝の山だ!と思ったのだ。事実、その後の利根川の付け替えなど治水工事によって、家康は関八州の湿地を次々と黄金の稲穂が実る穀倉地帯に変え、自らの財政と権力の基盤となしたのである。この辺は、わが畏友の竹村公太郎氏の「日本史の謎は地形で解ける」(PHP文庫)から仕入れた知識である。

 

継体が樟葉宮での即位を決めた時も、同様の発想とひらめきがあったはずだ。鋤や鍬(くわ)など最先端の鉄の農具があれば、低湿地はたやすく水田に転換できる。格段に効率の良い土木工事で土地を平坦にし、水路を整備して畦をつくり、田んぼへの給水や排水の管理をしっかりすれば、荒れた沼地はオセロゲームのように、たちまちにして宝

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の山に変わる。半島から入ってきたばかりの牛や馬も、新田の開墾に使役されたかもしれない。河内湖のほとりに位置する、現在の四条畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡からは、当時の馬の骨や馬具に交じって牛の骨も出ている。

 

さて、継体は即位の折にも土地を直接所有する必要性を痛感したのだろう。財政上も安全保障上も、広大な土地を持たない天皇などありえない。ならばと新天地の樟葉で耕作地を広げ、食料を増産し、兵を養い、地力をつける遠大な計画を着々と進めて行った。子供たちにも「屯倉」(みやけ=直轄領の農地)の重要性を言い聞かせたと思われ、息子の安閑天皇以降、皇室の屯倉は急激に増えている。「屯倉を増やすべし」、というのは継体に始まる皇室のドクトリンであった。

以上書き連ねた多くは、家康の開墾や屯倉増大の事実をのぞき、史書には無い僕の想像の産物である。はたしてご賛同いただけるだろうか(つづく)。

■地図は大阪市四条畷市の資料をもとに、岩佐が作成した概念図です。