【なぜ、村上春樹はノーベル文学賞を獲れないのか⑦-条件の欠格?】

なぜ、村上春樹ノーベル文学賞を獲れないのか⑦-条件の欠格?】

 

ノーベル文学賞は、一冊の著作に与えられるものでなく、長年にわたる文学活動に対してのいわば功労賞だ。世界の多文化、多言語の中から一人を選ぶとなると、選ぶ側も相当なコンセプトと言うか、説得力が必要だろう。ちなみにアルフレッド・ノーベルは遺言でノーベル文学賞の授賞要件を、「理想的な方向性の文学」(in an ideal direction)としているだけだ。選考委員の解釈の余地は大きい。それを踏まえて僕の「3大潮流」も戦後に限って、受賞傾向を分類してみたもの。表にするとこうなる。

f:id:iwasarintaro:20211205150010j:plain

これに村上作品を順番に当てはめてみてもらいたいのだが、どこか当てはまるところはあるだろうか。もとより村上には神の問題は出てこないし(ビートルズは出て来るけれど)、カミュのように実存との葛藤もない。まず第1潮流には当てはまらない。ついで第2潮流の川端やガルシア=マルケスらのように非西洋のローカルな民話を紡いでいるわけでもない。川端のように日本に閉じて完結していればいいが、むしろ村上ワールドは無国籍でユニバーサルだ。これは文化的越境として、アカデミーの高齢のメンバーは内心快くないのかもしれない。「ノルウェーの森」の翻訳本が2,000万部も売れたにしてもだ。

 

さてそれでは、第3潮流のソルジェニーツィンのような反権力の「抵抗文学」かと言うと無論のこと、そうではない。僕が授賞要件と考えるどの潮流にも村上は属さない。スウェーデン・アカデミーが良しとする伝統的な資格要件を、彼は満たしていないのだろう。村上の受賞できない理由はそこにあると思うしかない。

 

じつはそう考えて自分でも納得しようとしていた。だが、その間に僕はノーベル文学賞を選考する側のほうに問題があるのでは、と考えるようになってしまった。どうやらこちらの方が深刻で根本的な気もする。

 

というのは、彼らはアルフレッド・ノーベルの遺志を墨守するゆえかノーベル賞全体の理念に従い、文学もまた平和なより良い社会建設に役立つのがいい文学だと考えているフシがある。そのため基本的に、人文主義的でかつ物質的で、質実な文学が選ばれることになる。村上のように虚構と現実がシームレスに融合する小説の世界観などは、社会的に有用とは判断しがたく、少なくともアカデミーとしては認めがたいと言うのだろう。アカデミーの傾向は、「大きな物語」で「モラル(志)を持った小説」が好きだともいえる。だから伝統的立場からすると村上のような日常身辺の等身大の出来事が連綿するように見える小説は、たぶん気にくわないのかもしれない。

 

まあ賞の主催者が自らの価値観に基づいて人を選ぶことは、何ら問題はない。ただ、この場合、現代文学が向かう可能性の沃野をあえてノーベル賞が見捨てていることになり、選考結果は世界の文学の今日を代表していないことになる、と思うのだがそれでいいのか。その沃野について次回(つづく)。