大阪中之島美術館 開館記念 超コレクション展    佐伯祐三 《煉瓦焼》

絵と闘って死んだ佐伯の、真情あふれる遺言がこれ。

 

去る2月2日に待望の開館を果たした大阪中之島美術館の開館記念展も、3月21日で幕を閉じようとしている。僕も各地の講演や講義で観覧をお勧めしてきたが、多くの方から「見ごたえがあった」、「時間が足らなかった」などの感想をいただいた。また、ポスターや椅子のコレクションに好感を持ったとの声も多く、ファインアートと生活デザインをつなごうとする館の方向性が支持されて頼もしい。

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佐伯祐三 《煉瓦焼》1928 大阪中之島美術館蔵

さてシリーズの最後に、佐伯祐三の《煉瓦焼》を取り上げさせていただこう。彼は死の半年前、2月の厳寒時にパリ近郊に出かけてこの作品を描き上げた。ところがこの時の無理がたたって病床に就き、惜しいかな30歳の人生を閉じる。僕がこの作品を愛するのは、一人の日本人画家がパリに出て、どのように西洋美術を受け入れ、自らの画風を作り出していったのか、その闘いの軌跡が見て取れるからだ。

 

先にも書いたように、妻子を帯同して佐伯がパリに絵の勉強に出かけたのは、1924年(大正13年)のこと。そしてフォービスム(野獣派)で知られるヴラマンクを自信作を携えて訪ねるが、思いもかけず叱正を受け打ちのめされる。このころの佐伯の画風は、今展の最初に展示されている《彌智子像》(娘の肖像)でもわかるように、ルノワールのような温和な印象派風なのである。外光を筆触(ストローク)で柔らかく表現している。しかし佐伯が渡仏した1920年代の美術界では、印象派はいかにも時代遅れだった。印象派の後のフォービスム(野獣派)でさえ、すでに下火で、ピカソ(1881-1973)のキュビスム(立体派)やカンディンスキー(1866-1944)らの抽象画がすでに誕生している、そんな時代だった。

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ユトリロ 《グロレーの教会》1909 大阪中之島美術館蔵

佐伯は始めその辺の美術の動向にはうぶだったのかもしれない。ヴラマンクに叱責されてマジに落ち込み、しばらくは野獣派的なマッチョな筆遣いを無理に試みたりしている。佐伯がヴラマンクの呪縛を解いたのは、ユトリロ作品との出会いだろう。白い色遣いにほっと一息つき、都会のなかの憂愁の表現に異邦人である自分を重ねて共感したと思われる。《壁》はユトリロの影響をいち早く示す傑作だ。

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佐伯祐三《壁》1925  大阪中之島美術館蔵

そこから3年後の《煉瓦焼》は、死を賭して自分の画風を求めて苦闘した佐伯の、遺言にあたるかもしれない。多くの人はこの絵の無心で高貴な童画のような世界に惹かれるだろう。特に色の青と赤が美しいと思う人も多いはずだ。この色彩配分は佐伯と同時代のエコール・ド・パリのメンバーでもあるシャガールに触発されたものと考えるが、もとはイエスやマリアの聖衣の色であることも思い出していただきたい。

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シャガール 《窓から見たパリ》1913 ニューヨーク/グッゲンハイム美術館

屋根の黒く野太い輪郭線の描法はヴラマンクに由来し、その周りを白く自発光させているのは、佐伯自身の手柄だろう。全体に白い色の配分による孤独な安らぎ感はまさにユトリロ。さらに佐伯はモディリアーニの造形性に日本人として持つグラフィックな感覚を重ねて、もう他の誰も真似できない畢竟の傑作にたどり着いた、と僕は推測している(大阪中之島美術館はこれで了)。   

  

開館記念「超コレクション展 99のものがたり」(大阪中之島美術館)は3月21日まで。

 

■講演会予告 5月27日(金)大阪中之島美術館大ホール 13時半から約1時間半

前後に「モディリアーニの企画展」を見ることも可能です。詳細は追ってお伝えします。

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ