「この名画はなぜ名画なのか」③ ボッティチェルリ《ヴィーナスの誕生》

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 第③回

 

サンドロ・ボッティチェルリ 《ヴィーナスの誕生 縦172.5×横360cm ウフィッツイ美術館(フィレンツェ

 

ルネサンスとは何であったか?その本質をたった1枚の絵で語るなら、ダ・ヴィンチでもなくミケランジェロでもなくウフィッツィ美術館の至宝、ボッティチェルリ(1444-1510 )のこの絵だろうと、僕は考えています。さあ、そこまで言い切る根拠とは何か。

ヴィーナスの誕生1483 ウフィッツイ美術館 高さは172cmなのでほぼ等身大。

まず絵を見ましょう。真ん中に、現代では特段珍しくもないヌードが、ホタテ貝の上でポーズを決めています。美形のようですが右手で乳房を隠し、もう片方で秘所を隠し、全体に何だか悩ましい。ただ誰もが題名で知るように、中央の女性は人でなく女神です。左側では男女がエロティックに抱き合っていますが、男には大きな翼があって、やはりこれも神様。西風の神「ゼフィロス」とそして花の女神「フローラ」です。右側で大きな布を広げ裸の女神を待ち構えているのは、時を司る女神「ホーラ」です。ちなみに背景の海が意味するのは「生命の誕生」で、ホタテは海の豊穣、降り注ぐバラは愛です。この絵の登場人物と道具だてを説明づけると、ざっとこのような世界になります。

 

さてそれでは、読者の皆さんに質問をします。描かれた世界の各部品が分かったとして、この絵の最大の特徴はどこにあるでしょうか?ヒントは何が描かれていないのかを、考えることにあります。描かれていないものとは何なのか?答えを先に言ってしまうと、キリスト教のイエスやマリアら聖人の姿が無いことです。「そんなのギリシャ神話だから当たり前じゃん」、と思われた方は、キリスト教ギリシャ神話の区別がついています。でもふつう我々日本人は、西洋美術を見るときにここが難しい。

 

では、キリスト教の聖人が描かれていないことが、なぜルネサンスを語るうえで大変な事なのかということです。この絵が描かれた15世紀の後半、キリスト教がローマ国の国教として認められてすでに千年もの年月が経ち、全知全能の神が世界を作ったとする一神教が、西欧世界を支配していました。ところがここにボッと登場したボッティチェルリの絵は、なんと大昔に戻って、ギリシャの神々を引っ張り出してきたのです。なにしろ風にも花にも八百万(やおよろず)の神を認める多神教の世界です。しかも男女が裸でふしだらに絡み合って、生殖の礼賛にも見える。ストイックな教会にとっては教義からしても道徳からしても、許しがたい重大な背神と映ったでしょう。

 

しかしながら、この絵の登場は人間をキリスト教の神の呪縛からハッと目覚めさせ、精神的に自立を促し、人間を神と同等かそれ以上の存在として考える契機になった点で衝撃的でした。後年のデカルトの「我思う、ゆえに我あり」の哲学も、王様の首を切ったフランス革命も、源流をここに求めることができます。

 

また驚くべきことに僕が調べたところ、西洋のヌード画の歴史はこの絵から始まっていました。いらいリアルな人体表現法も、「女神だけはヌードでOK」とする考えも400年近く長い射程で後世の巨匠たちに影響を与えてきました。《ヴィーナスの誕生》は、中世の終焉と近世の開幕をいち早く告げた、思想と美術の金字塔と呼べるでしょう。

 

岩佐倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ