【なぜ、村上春樹はノーベル文学賞を獲れないのか①】 211011

【なぜ、村上春樹ノーベル文学賞を獲れないのか①】 211011

 
今年も村上春樹ノーベル文学賞を逃した。お昼のニュース番組ではコメンテーターたちが、「いや、彼はまだ世界の文壇に出て20年にしかならず、年季が浅いですから」などと評論しているのを聴きながら、「そうかなあ、違うなあ!」と僕は感じざるを得ない。知名の浸透や本の売り上げを言うなら、村上にはるかに及ばない今年(2021年)のタンザニア出身の人のような受賞者もいるではないか。そうではなくて、僕は村上にノーベル賞を与えるのをためらう選考側の思想的な理由があると思う。そのことに気づかされたのは、去年の春、新型コロナウィルスの蔓延をきっかけに、学生時代に読んだままになっていたアルベール・カミュの「ペスト」を読み直した取った時の事だ。ちなみにカミュは、1957年のノーベル文学賞の受賞者だ。
 
小説「ペスト」はある朝、主人公の医師が階段で一匹の死んだネズミを思わず踏みつけ、つまづくところから始まる。サスペンス映画を見るような出だしで、簡潔でスタイリッシュな文体にかっこよさがあるのだが、小説自体のテーマは重い。西洋社会の哲学的な苦悩が一身に詰まっている、と言ってもいい。つまりペストという厄災を前にして、宗教は何ができるのか、「神」は救済になるのか、逆に宗教ではなく科学に依拠する医師は、祈りに替わって世界を救えるのか、またそのときジャーナリストは何ができるのか・・・。などなど、アルジェリアの架空の都市オランを舞台に、ペストが広がり猖獗を極め、やがて収束していくまでの物語を、カミュは小説を対話による思想劇として再構成している。
 
例えば教会の牧師のばあい。キリスト教が無辜な一人の少年の命さえ救うことができなかった無力感から、患者救済のボランティアの一員に身を投じ、ついにペストに感染して死んでしまう。これは殉教か敗北か、作者は答えを語らない。また医師のばあいは、医学に誠実であり続けることこそが生きる規範になると、近代の職業倫理を語る。だが巨大な厄災の前にして医学も実はおよそ無力である。それを知っても明日に向かって生きるほかはない不条理な人間の悲劇(「シジフォスの神話」のように)、そして切ないまでの希望の持ちようを、立場を超えた議論として提示し、答えを読者にゆだねているのだ。非常に老巧な仕立て方だが、信仰と科学がせめぎあうヨーロッパのぎりぎりの良心と言うか苦悩が俯瞰されて感動的なのだ。
 
ちなみに小説の終末は、ペストが収まり、街には祝福の花火が上がり、主人公の医師らは夜の海を泳ぎながら、その景色を見上げる場面だ。ただしこのような厄災は、時を変え場所を移してまた訪れるだろうと、黒い予言で締めくくられる。
 
村上春樹ノーベル賞を受賞できない理由を語ろうとして、つい長いカミュの「ペスト」の紹介になってしまった。僕はカミュをきっかけに戦後のノーベル賞の受賞記録を見ていって、受賞するためには大きく3つの系譜に入ってないといけないことに気づいた。その発見を次回に(つづく)。