開催中【走泥社再考――京都国立近代美術館】

【走泥社再考――京都国立近代美術館

八木一夫《ザムザ氏の散歩》1952


写真のような焼き物を眼にした時に、陶芸ファンはいったいどのようにこれを鑑賞すればいいのか。何かツノの出たタンバリンか、転がる王冠なのか。あるいは海の腔腸動物のような生命体なのか。そもそも現実のものに見立てるのは、間違いかも知れない。では一種の抽象絵画かと見れば、そう見えなくもないが、あいにく3次元です。まあ泥と炎が作り上げた立体的なオブジェなのだろうといったん納得はしてみるものの、次なる疑問がわいてきます。いったい何のために、作家はこんな焼き物を作ったのか、何を意味するのか、と。

八木一夫《ザムザ氏の散歩》1952 京都国立近代美術館 


今から75年前の1948年に前衛的な陶芸集団「走泥社」が発足し、リーダー格の八木一夫(1918-1979)が発表した作品のひとつが、この《ザムザ氏の散歩》です。高さ30センチに満たない作品ながら、戦後の焼け野原から立ち上がった日本の陶芸家たちの純粋で熱い想いがほとばしっているようにも感じます。ただそれは今だから言えることで、当時作品を見た多くの人が大いに困惑し、先のような疑問に捉われたことでしょう。

不可思議なのは形状だけでなく、題名もまたそうです。まずザムザ氏とはいったい誰なのか?これは文学好きの人はご存じかもしれませんが、現チェコ生まれの有名な小説家、カフカの作品に由来します。彼の「変身」は、「朝起きたら、自分が巨大な昆虫になっていた」という、不条理で漫画的とも言える設定。その主人公で若い男の名が、「ザムザ」。ザムザは無残な変身によって家族や社会からは疎んじられ、ついには父親にリンゴを投げつけられたときの傷がもとで孤独に死んでしまいます。ところが残った家族は皮肉にも、再び希望をもって生きるという、なんとも笑うに笑えない不条理やカルトの奇妙な世界で終始します。筆致が怜悧な分だけ余計に、日常とは何と不連続で不確実で脆いものなのか!そして人間もまた同様に、と思い知らされる訳です。ノーベル文学賞を受けたカミュの「ペスト」とともに、カフカの「変身」は不条理小説の双璧を成し、戦後日本で相次いで翻訳書が出て人気を呼びました。

八木一夫もまた、文学や哲学の戦後のグローバルな潮流に多感に反応して、人間の実存について考え、同時に保守的な陶芸を、絵画や彫刻に並ぶ思想を持ったグローバルな造形芸術に引き上げようとしてこの作品を生みだしたのではないか。僕はそう思います。のちに《ザムザ氏の散歩》は、実用性を廃し純粋に造形性を追及する「オブジェ焼き」の始まりとされ、破壊的な創造で陶芸史を塗り替えた記念碑的な作品と位置付けられます。

 

もともと美術に一定の答えは無いし、意味を求めすぎると逆に縛られて解らなくなります。それゆえ、われわれはこのような作品を眼の前にしたら、壺や皿の見方でなく、抽象絵画や彫刻を見るときのように、作家の手技の痕を追いかけ、目を放牧して自由に遊ばせてやるのがいいでしょう。このときの開放感や脳に感じる愉悦こそが、作品を見る意味かもしれません。

 

もう一点、八木一夫の名作を紹介しておきましょう。《二口壺》。ミロ的な絵画の飄逸味に溢れた作品です。八木の絵画へのセンスや情熱が強く伝わってきます。この資質があったからこそ芸術分野の土手を越流して、オブジェ焼きを実現できたのだろうと得心させられる作品でした。

《二口壺》1950 京都国立近代美術館蔵 ミロ的な飄逸な絵画センス

 

企画展 ■走泥社 再考 ――前衛陶芸が生まれた時代   
京都国立近代美術館岡崎公園内)開催中 9月24日(日)まで

 

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎