古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑨船の埴輪を見ると、古墳にも波止場が必要だ

今から1,600年ほども昔の仁徳陵が出来たころの船なんて、小さな丸木舟じゃないの?!と多くの人は思うかもしれない。ならば桟橋や船着き場なども要らないだろう、とお考えになるかもしれない。しかし実際は、さにあらず。古墳時代の中期、どのような進んだ造船技術があったのか、類推できる強力な証拠品がある。写真は、仁徳陵とほぼ同時代に築造された三重県松阪市の古墳から出土した船形埴輪だ。長さが何と140センチ、高さが90センチ(円筒台を含む)と最大級!この形を見れば、もう丸木舟とは呼べないだろう。学術的には「準構造船」と言って、刳(く)り舟をベースにして舷側を板で高くして、居住性や積載量を確保した伝統的な日本の造船術だ。また並んだ穴は櫂(オール)をこぐための「ピボット」と呼ばれるもの。

埴輪なので当然のことながら葬儀としての威儀を整えた体裁にされており、左の柱は「太刀」、右の笠のある柱は蓋(きぬがさ)と呼ばれる。また、船の真ん中には、「¥」のような大小2本の威杖が立てられている。いずれも首長などの威信を示すもので、当時の貴人が乗る船の形や性能がよく分かるだけでなく、葬儀儀礼の際の様子も反映されており、学術的に極めて価値が高い。加えて美術品として見たばあいも、デザインは晴朗かつ豪華で、淀みのない造形のリズムは間然するところがない。国の重要文化財に2018年に指定された。

さあ、それでは実際の船の大きさはどれくらいだったのだろう。大阪では八尾の久宝寺遺跡ほか、弥生時代の10メートルを超える準構造船の出土例が多くある。埴輪のモデルとなった船も、時代が下って古墳時代なので、それに匹敵するかそれ以上の大きさはあったと、推定してもまったく構わないだろう。

ともかく、こうした大型の船が何隻か連なって、長い工事期間の神・祭事などの節目に人や資材を運んだ。また天皇崩御のあとは殯 (もがり)を経て、いよいよ石棺に納められた遺骸が、船で墳丘に運ばれる。恐らく后はじめ眷属や政府高官らが喪服に身を包んで船に分乗し、幟を掲げ、奏楽しながら棺を石室に収める盛儀を執り行ったものと思われる。接岸して船を舫うに当たっては、船着き場(ポンツーン)というか岸壁が必須である。自然のままの水際のスロープでは、人や物資を安全に積み下ろしできないので。もし環濠の水中調査が許されるならば、「造り出し」の部分は石積みか何かの岸壁工事の痕跡を発見できるかもしれない。

ところで造り出し(=船着き場)が左右2か所あるのはなぜかと言うと、季節によって風が違うので、接岸やもやいの利便を考えての事かと思う。天皇を乗せる船は恐らくキャビン(船室)が設けられていた筈で、こうしたカサ高い船はちょっとした風圧にも弱いのである。あるいはまた、搬出入する物資や人の種類によって、穢れを嫌って表玄関・裏口のような使い分けをしたのか。などと、かつて琵琶湖でヨットに乗って遊んでいた経験も踏まえて想像してみたのだが、当たってますかねえ。閑話休題は、これにて終了(つづく)。

写真は松阪市文化センター(はにわ館)から提供を受けました。

当時の舟の姿が想像できる埴輪 実際の舟の長さは10メートルを超えたかも

作図は筆者